2011年2月から3月にかけて、OVER 40's TEDDY BOY 博多、大阪、名古屋、そして東京で、そのツアーの幕を閉じた。
本当に、演れてよかったなと思っている。
俺達の故郷九州博多では、ダチの「エスカレーターズ」のボーカルMASAMIの愛息 TAKUHOが高校生になっていて、ピアノがひけるというので、ライブ前夜、一緒にスタジオに入り、
「WEEKEND PARTY」
「ガラクタ GARAGE MUSIC」
「I'M SORRY GOOD NIGHT」
「CRACK BURGER」
「KING KONG」等をセッションし、当日すばらしいプレイをやってくれた。
活動休止した17年前に生まれた奴が、今では堂々たる男にグローイングアップしてやがる。
またやろうぜ TAKUHO![ビックリマーク]()
17年後にね![ドキドキ]()
高校や中学の時のダチとも逢えた。
20年ぶりとか30年ぶりとかが、そんなに昔に感じないのは、俺がボケているからでは決してないだろう。
佐賀 有田で、30年ぶりに逢った「BOTTSU」はラーメン屋をやっていた。
ギターを演りだしたらしく、『KAZUKI』とゆう自作の曲をつくっていてくれて、実筆の歌詞をプレゼントしてくれた。
BOTTSU
ありがとう。
また飲みに行くけん。
ライブの打ち上げで、九州のみんなが、45才に成り果てたばかりのすっとぼけた俺のために、誕生日を祝ってくれた。
生まれてよかったぜ。
あの夜を思い出すだけでも、うれしくて、踊り明かしたい気分だね。
そして、大阪、名古屋は、同期の黄桜「The ピーズ」呑と一緒にやった。
彼らも全員オーバー40。
ハルは俺と同じく「円錐角膜」で視力が弱っているが元気でやっている。
ライブ後、打ち上げで酔狂と化した俺は、ドラムのしんちゃんに、必殺技「猫のボディーブロー」を連打しまくり、かわされ、顔面から転倒、不名誉の傷を負った。
反省してはいない。
記憶もない。
「漢の酒は無礼講」だからである。
しんちゃん、ごめんねぇぇぇぇぇん。
名古屋には親父がいる。
血はつながっていないが、親父だ。
というのは、20年ほど前、俺は中京テレビの「ラジオDEゴメン」というTV番組の司会を1年半も務めさせてもらった。
記憶がたしかなら、毎週水曜日、深夜1時から朝5時までの音楽バラエティ的番組で、
FLEXビル最上階の焼肉屋で生収録で、ラジオの深夜放送テレビでやるみたいな趣向だった。
まだ純粋でウブだった俺は、お地蔵様のようにかたく口を閉ざし、4時間もの間、鎮座していた。
座りつかれた仕事の帰り、
「青春も終わりだな」
と俺はつぶやきながら、番組スタッフやイベンターの人たちとFLEXビルにほど近い「ハードデイズナイト」という地下のBARへすいこまれていった。
殺風景で、煙草のけむりの中に親父はひそんでいた。
ビートルズの音楽と、ジョンレノンのモノクロの写真。
テーブルの上には、積み上げられたビールの空き缶。
無造作に置かれた札束。
マフィアの然とした背広の男たちが、静かにポーカーをやっていた。
最初、当時流行の暴力BARかと思った。
親父はその店のマスターで、「カッツァン」と呼ばれていて、「バンカラ」という言葉があるが、そのままの男だ。
「おまえ バカヤロウ」が口癖で、
「番組の司会におまえを押したのは俺だ」といって飲んだくれていた。
俺は毎週、仕事帰りに「ハードデイズナイト」にすいこまれていき、飲んだくれて、
その親父に、女々しくもくだらない悩みを打ちあけ、グチを吐き、一円の金も払わず帰ったが、
親父は俺がHOTELを出る時間に車で迎えに来てくれ、
二日酔いの俺に「おい、メシ喰いに行くぞ」とロビーでたばこをふかし待っていて、
しゃぶしゃぶやカレーうどん、台湾ラーメン等をごちそうしてくれた。
飲酒運転だけどね。
今でも「JUNIOR」の名古屋近郊でのライブに、手作りの煮物やおにぎり、ゆでたまご、帽子等をぶらさげて、来てくれる。
今回も炊き込みご飯を大量にこしらえて来てくれた。
親父のおかげで、名古屋は俺にとってスペシャルな街だ。
語りつくせないので、改めて、親父の人となりをブログりたいと思っている。
彼には内緒でね![ドキドキ]()
もうこのへんで。
次回、続編 よろしく。
KAZUKI